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「名古屋おもてなし武将隊®」ラッピング車両未来クリエイター☆信長がJR尾張一宮駅発の理由

2018.9.9

2018年愛知デスティネーションキャンペーン
9月30日のオープニングセレモニーは残念ながら、台風の影響で中止となってしましましたが、10月6日に未来クリエイター☆信長 戦国の分岐点「長篠・設楽原の戦い」が開催されましたので、写真と一緒に少しご紹介します。

写真は上から、信長号の入線の様子、信長号の車両、お見送りの様子です。漆黒の車両に、信長、秀吉、家康がデザインされ、かっこいいですね。JRさんによると愛知デスティネーションキャンペーンの期間中は、この車両が県内各所で随時運行されているそうです。ちなみに、ここ一宮では、「モーニングトレイン一宮」として、11月11日(日)、12月8日(土)にもやってきます。是非、お楽しみに!!

ここでは、織田信長と一宮との関係についてお伝えできればと思います。

1.真清⽥神社に奉納された蘭奢待(らんじゃたい)
2.「尾張の大うつけ」織田信長と「美濃のマムシ」斎藤道三が会見した聖徳寺(しょうとくじ)
3.信⻑の天下統一の足掛かりとなる尾張平定の最後の大戦「浮野の合戦」

【1.真清田神社に奉納された蘭奢待(らんじゃたい)】

時の権力の象徴、織田信⻑が削り取った、東大寺 正倉院の蘭奢待が一宮(真清田神社)にあるんです。

宮司さんによると、 あの正倉院御物の「⻩熟香(蘭奢待)」を織田信⻑が切り取り家臣などへ配ったのは世に知られる事であるが、分与された家臣の一人である村井貞勝は、友人である一宮城主の関⻑安にこれを贈呈、⻑安はこれ を自身の家に置くのは恐れ多いとして真清田神社に奉納したという事が、神社に伝わる「天正二年(15 74)五月付の奉納状」に記されています。

ところが寛永八年(1631)閏十月の「佐分栄清覚書」と、享保十八年(1733)編纂の「真清探桃 集」では、蘭奢待は紛失して無くなっている旨の記載があり、これらの資料から判断するに、天正二年に 関⻑安より奉納された「蘭奢待」は、寛永八年迄の何れかの時点で何らかの理由で散逸してしまったものと考えられます。

が、しかし、不思議な事に、現在神社には「蘭奢待」と伝えられる『小片』(マッチ棒半分位の大きさの 物)が現存しており、一旦紛失していた「蘭奢待」が後年になって見つけ出されたものなのか?それとも 「佐分栄清覚書」「真清探桃集」に有る紛失の記載は間違いで、実際に「蘭奢待」はその時代も神社に存在していたという事なのか?あるいは全くの偽物なのか?

いずれにしても現在、神社に伝わる小片が「蘭奢待」そのものであるという可能性は否定できません。事の真実はこの『小片』を詳細に調査した上でその結果を見てみなければ判りませんが、歴史のロマンを感じるエピソードですよね。

 

【「尾張の大うつけ」織田信長と「美濃のマムシ」斎藤道三が会見した聖徳寺(一宮市冨田大堀 413-5)】

信⻑を語るうえでかならず取り上げられるエピソードで、
尾張のおおうつけ「信⻑」と美濃のマムシ「道三」が対峙した「聖徳寺の会見」があります。

信⻑の正室が濃姫で道三の娘であることは知られていますが、
天文 22 年(1553 年)、斎藤道三は巷での “大うつけ” のうわさに不安をおぼえたのか、娘婿の織田信⻑が本当に “うつけ者” かどうかをその目で確かめるため、会見を申し入れました。

信⻑と道三は初対面で、会見は濃尾国境にある富田の聖徳寺で行なわれ、道三は信⻑を驚かせてようとしましたが、逆に信⻑に度肝をぬかれたという話が伝わっています。

信⻑は聖徳寺に向かう道中、茶筅髷、湯帷子にひょうたんをぶら下げ、見るからに、うつけ者でしたが、 従える兵は 1000 余り゙、立派な鉄砲隊と⻑槍隊で構成され、道三は驚きます。

聖徳寺に着いた信⻑は、素早く正装に着替え、髪を結い、小刀を腰に挿し、正装で身構える道三の家臣ら の前を平然と通り過ぎて、道三を待ちました。

道三はと云えば、たわけ姿から一変した信⻑の正装に驚き、苦虫を噛み潰したような顔をしていました が、会見は無事終了。
美濃への帰り道に道三の家臣が「信⻑は評判通りのうつけでしたな」というと、「無念だ。わしの息子た ちが必ず、あの大うつけの門前に馬をつなぐことになるだろう」と信⻑の器量、軍事力を認めたとされて います。この会見以降、信⻑をうつけという人はいなくなったそうです。

信長と道三が対峙したのは、この会見が最初で最後だったそうです。こんなエピソードがここ一宮であったなんて、面白いですよね。しかも、信⻑と道三が一宮市冨田で会っていたなんて・・・

 

【信⻑の天下統一の足掛かりとなる尾張平定の最後の大戦「浮野の合戦」浮野古戦場跡(一宮市千秋町浮野海道 23)】

最後に、信⻑の天下統一の足掛かりとなる尾張平定の最後の大戦となる「浮野の合戦」について。
永禄元年(1558 年)に、清州城の織田信⻑に敵対して尾張上四郡を支配していた岩倉城の織田家のお家騒動 に乗じ、信⻑は岩倉城の織田信賢攻めに動き出します。

当所、2000 余騎を率いて現在の一宮市千秋町の浮野へ進軍しましたが、犬山城主織田信清を味方に、援 軍 1000 の兵を得て、総勢 3000 で戦に臨みます。

対する岩倉勢も 3000 の兵、ほぼ互角の兵力で、激戦が繰り広げられ、信⻑軍が大勝利を収めます。この 戦のあと、永禄二年(1559 年)に岩倉城は落城し、信⻑が尾張を統一します。その翌年には、桶狭間の 戦いで今川義元を破り、信⻑は瞬く間に全国区になっていくわけです。

この合戦では、賢信方の弓の名人「林弥七郎」と旧知の仲であった、信⻑軍の鉄砲の名手「橋本一把」が 一騎打ちをし、林弥七郎が討ち死にしたというエピソードもあります。
いずれにしろ、1250 人以上の死者を出す、ものすごい合戦が、ここ浮野で・・・と思うと、不思議な感覚になります。

 

信⻑と一宮、意外なつながりあって、ひょっとすると、このあたりを信⻑がうろうろしていたと思うと、 ロマンを感じます。